飛梅町復活の金沢に梅寄贈/太宰府天満宮
(日刊スポーツ九州 2月17日)
加賀藩当時の旧町名復活を進めている金沢市に「飛梅町」が誕生したのを記念して、菅原道真の飛梅伝説で知られる太宰府天満宮(福岡県太宰府市)が金沢市に梅を贈ることになり、17日午前、福岡空港から全日空機で運ばれた。(後略)
「飛梅」飛んで金沢に 太宰府と交流、つぼみ膨らむ 20日に植樹
(北國新聞社 2月18日)
菅原道真公(天神)の飛梅伝説で知られる太宰府天満宮(福岡県太宰府市)から金沢市に贈られる紅白梅が十七日、全日空便で小松空港に到着した。旧町名「飛梅町」復活を記念し、伝説さながらに航空機で空を飛んできた梅は、同日、金沢市へと運ばれ、二十日の植樹式を待つばかりとなった。(後略)
●なぜ太宰府天満宮から梅が贈られたのでしょうか。上記の記事では、菅原道真公の飛梅伝説が「飛梅町」という旧町名の復活のきっかけになったことが、簡単に触れられています。
●町名変更のいきさつを調べていたら、なんと、わが母校「金沢市立紫錦台中学校」のサイトで見つけました(元情報は新聞記事ですが)。
●なぜ母校のホームページに書かれているのか。それは…簡単な話です。じつは、昭和38年まで「飛梅町」が母校の所在地の町名(飛梅町3丁目)だったからです。
金沢市立紫錦台中学校 「飛梅町」復活!のページ
金沢市立紫錦台中学校 公式ウェブサイト
●旧町名がなくなったのは、金沢市が「昭和37年制定の“住居表示に関する法律”の実験都市に指定され、昭和39年以降、520の旧町名が消滅した」からでした。
住居表示に関する法律 昭和37年5月10日 法律第119号
●しかし、金沢市は、国の方針とはいえ、市民に親しまれてきた歴史的な町名を変更したのは軽はずみな決断であったことを深く反省し(? 注・私の推測デス)、平成11年、全国に先駆けて「主計町(ちからまち)」を復活、次いで翌12年、石引3丁目に変更されていた地区を、元の「飛梅町(とびうめちょう)」と「下石引町(しもいしびきまち)」に戻したのです。拍手。
●旧町名の復活は全国的な動きになっていると、数年前どこかで聞きました。また、これはほとんど関係のない話ですが、つい最近、東海道五十三次などの五街道の起点である「日本橋」も、橋の上をまたいで架けられている現代文明のシンボル・高速道路を移転して昔の景観を取り戻そうという動きがあるようです。私には同じ線上にある動きのように感じます。
●多くの日本人がいいと感じているものは、いくら古いものでも積極的に残していこう、という機運が盛り上がっています。歴史を残すというのは、一部の偉人の業績だけでなく、一般市民の生への思いや努力の跡、生活文化なども残していこうということなんですね。
●最近は殺伐とした事件ばかりが目立ちますが、これは心あたたまる、ちょっといい話でした。大宰府から飛んできた梅が、爽やかな春を運んできてくれたようです。
平成の大合併でこういった由来のある町名や市の名前がどんどん消えちゃいますね。
●そういえば、今回の市町村合併によって、現在私の住んでいる街の名前は変わらなかったのですが、お隣りの市と町は、一部で変わった地区もあります。いろんな面を検討しての合併だったと思いますが、地名が変わった地区に住んでいる方の中には最後まで反対していた人もいました。
●政治も経済も暮らしの中でも、一応は「少数意見を尊重する」と言われるのですが、結局は、何事も多数決で決められていきます。反対意見は大きな声で言わないと聞いてもらえない世の中なんですね。どうせ言ってもムダ…とは思いたくないですが、せめて納得できる(心の整理ができる)時間くらいはほしいものです。