氷室、続報 金沢遠望

2006年07月01日



氷室、続報

●昨日〜本日は氷室開きの日です。
厳かに氷室開き 金沢・湯涌 涼感楽しむ
(北國新聞 2006年6月30日)
金沢市湯涌温泉で三十日、夏の風物詩である「氷室開き」が行われた。一月下旬から小屋に保存されてきた雪が披露され、雨の降る中集まった観光客や地元住民ら約四百人が涼感を堪能した。
金沢市湯涌町の薬師寺境内の氷室小屋前では、同温泉観光協会の安藤精孝会長が「昭和の時代に始まって二十一回目を迎えることができた。これからも湯涌の歴史として続けていきたい」とあいさつ。仏事に続き、協会員が小屋から切り出した雪を薬師寺に奉納したほか、保育園児が雪に触って歓声を上げた。同協会によると、五カ月前に小屋に詰めた雪約三十立方メートルのうち、六割程度が残っていたという。
金沢湯涌夢二館前の広場では、神酒や氷室そうめんなどが振る舞われたほか、温泉商品券などの当たる抽選会が催された。同日午後には石川県や金沢市に雪や氷室まんじゅうなどに加え、清少納言が「枕草子」に記した一節をもとに同協会が再現したかき氷を贈る。

●氷室に関連して、6月28〜29日にいただいたKENさんのコメントで、かなり正確な意味や背景などを教わりました。また、その話が非常に面白かったので、ここに記事として再掲載させていただくことにしました。

金沢城内にあった氷室氷室の氷の本当の採掘地犀川の上流・源流の自然金沢市の最高峰「奈良岳」周辺の山村の秘話、そしてKENさんの博学に驚いてください。また、ご興味をもたれた方はぜひ一度、KENさんのサイトを訪れてみてください。驚くような資料ばかり。すごいですから。

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石川県・金沢の幕末明治の出来事


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この記事へのコメント

<KEN>

氷室の日の氷献上は利家の頃からで、そのころは旧暦6月1日に、今の金沢の水瓶である犀川ダムに沈んだ二又・見上そして其の奥の、今尚廃村となって在る倉谷等の集落から運んできたそうで

其の頃、ここら辺の住人は利家より仙役として山仕事を任され、税は免除されてました。
その代わり合戦になると借り出され、陣地構築の役を負ったそうです。

倉谷廃村は私の好きな場所で犀川ダム沿いに
高三郎岳」に向かって、ダム沿いを2時間ほど歩いた吊橋を渡ったところに在ります。
高三郎の奥に犀川の源流犀滝があります。

金沢の最高峰「奈良岳」はその奥で向こうは河内村と五箇山辺りです。

幕末〜明治の毎年の記録を載せたMyBlogは
http://blog.goo.ne.jp/kaga-kanazawa/

Posted by KEN at 2006年06月28日 10:44


(kenbo)
●KENさん、コメントありがとうございます。またまた詳しい情報で勉強させていただきました。

●金沢にいたのは高校までで、その後は年に1、2回、帰るかどうかの親不孝を続けており、たまに帰省しても墓参や親戚周りであっという間に愛知県に戻ってしまいます。そんな生活をン十年続けており、犀川の源流には未だに行ったこともありません。お恥ずかしい限り。

●氷室の氷は犀川の奥の山村から運ばれていたとは知りませんでした。これまでは、湯湧の山間部だとばかり思ってました。高三郎岳、奈良岳なんて名前を聞くと、まさにマタギの世界。藩政時代は辺ぴな地域にも、密かな命を受けてその土地を守り続けている人たちがいたそうですね。

●感心させられる話ばかりです。ありがとうございました。当ブログはいつも浮わついた記事ばかりですので、時々喝を入れにきてください。よろしくお願いいたします。

Posted by kenbo at 2006年06月28日 20:42


<KEN>
拙宅においで下さいまして有難う御座います。

金沢人でも金沢市の最高峰は「奈良岳」と云う事を知らないし、それが何処にあるかを知ってる人は余り居ません。春先に犀川ダムから望む雪を被った奈良岳の勇姿は見事ですよ。

此処等辺はマタギの世界そのもので、雪解け時に此処へ行くと獰猛な猟犬を従えた「熊撃ち」に出会います。私もニ三年に一度は熊と出会いますよ。

此処の犀川上流は加賀藩の隠し金山があり、その掘削人を町に出さないように隠れ遊郭まで在ったそうです。
又、山を越えると火薬の原料である、五箇山の樟脳を掘っており、私の推測ですがその運ぶルートも此処を通ったのでは?と思われます。

と、云いますのは此処へ行く入り口の辺鄙な(今は辺鄙じゃない!)「駒帰町」(馬も引き返す険しい道の意らしい。その川向こうは熊が走り回る「熊走町」)に藩の役職者が住んでいたからです。多分、秘密を守る役割でしょうね。

その加賀藩秘密の金や樟脳を掘った人々の末路はどうなったんでしょうね?口封じ!?

湯湧の氷室は町興しで20年位前に始めたもので、江戸時代は遠くから運ばなくとも金沢城内に氷室を作り、其処の氷を将軍へ献上してました

Posted by KEN at 2006年06月29日 07:47


(kenbo)
●重ねてのコメント、感謝いたします。

●やはり奈良岳周辺はそういった地区だったんですか。マタギというのか忍者というのか隠密というのか、私にとっては昔見たチャンバラ映画でしか知らない世界ですが、中世の武家社会の暗部ですね。

●金沢の中心街から遠く離れたのどかな山村でも、すごく重い歴史を背負っているということを知り、何故か感動しました。勉強になりました。ありがとうございました。

Posted by kenbo at 2006年06月29日 09:58



奈良岳の位置
金沢市の最高峰、奈良岳の標高は1644m―これ、検定に出ます(かな?)



縮小率をアップすると石川県全体の中での位置がわかります。
五箇山(富山)と白川郷(岐阜)に非常に近いですね。こんな山岳地帯まで金沢市内だったなんて、まったく知りませんでした。勉強、勉強!


奈良岳に関する情報

奈良岳(ならだけ)

赤摩木古山・奈良岳・奥三方山 (富山・石川、五箇山)




posted by kenbo | 石川 ☁ | Comment(5) | TrackBack(0) | 金沢の風物詩 | 金沢遠望 TOPへ
この記事へのコメント
なるほど〜。
私も氷室はもともと湯湧のものだとおもっていて、兼六園内にある氷室跡はなんだろ?と不思議に思っていました。
町おこしだったのですね、
Posted by くてくて at 2006年07月02日 10:25
●くてくてさん、いつもコメントありがとうございます。

●兼六園の氷室跡は正式なものではなさそうで、「献上用の保存庫として使っていた氷室は金沢城内にあった」というKENさんのお話でした。

●みんなが知っている有名な歴史上の話の中にも、けっこうあいまいなものが多いということかも知れません。史実と思って記録した人の記憶間違いということもありえるわけですから、歴史の教科書に書かれていることがすべてが正しいとは限らない、ということでしょうか。
Posted by kenbo at 2006年07月02日 13:22
兼六園は金沢城の一部だったんですよ。
だからその氷室跡がそうだったかも知れませんね。

少し兼六園の説明を。
延宝4年(1676年)に五代藩主前田綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造り、当時は、金沢城の外郭として城に属していた。12代藩主斉広は、文政2年(1819)、家臣たちに隠居を表明する。文政5年(1822)、隠居所「竹沢御殿」が完成する。
13代藩主前田斉泰は天保8年(1837年)霞ヶ池を堀り広げて増庭させ、現在のものにほぼ近い形にしたとされる。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃で嘉永4年(1851)現在の兼六園が姿を現した。
明治7年(1874)5月7日、太政官布告に基づいて、兼六園は公園となり、市民に全面開放された。

その兼六園の呼称は兼六園、兼六公園、金沢公園等と変遷し又兼六園になり現在に至ってますが、明治初頭の一時期「與楽園(よらくえん)」と呼ばれてたのはほとんどの人が知りません。

ブログの日記にも載せましたが、明治初めには此処で何回か博覧会が開かれてました。
Posted by KEN at 2006年07月03日 11:10
●KENさん、お付き合いありがとうございます。

●「兼六園の氷室跡は正式なものではなさそう」というのは、以前に記事を書いたとき、金沢市のページの中に「これは多分明治になって一般の人々が利用したものだろうと云われています。」という一文があるのを知ったからでした。

●しかし、KENさんのおっしゃるように、やはり藩が利用していた氷室だったのかも知れませんね。たぶん、立て札以外のはっきりした証拠となるものが残されてないんでしょうけど。

●それにしても、與楽園とか博覧会(大博物大会)とか、またまた兼六園に関する貴重な情報提供をいただきました。ありがとうございました。
Posted by kenbo at 2006年07月03日 12:06
(。・ω・)ノ゙ コンチャ♪たまに見てますょ〜♪
Posted by xx蛍xx at 2006年07月05日 03:56
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