金沢城の石垣の石を採った場所 金沢遠望

2005年11月06日



金沢城の石垣の石を採った場所

●先月の辰巳用水の世界遺産の記事にある「石川県に世界遺産を 推進会議」が活発な活動をなされています。きょうの北國新聞サイトには金沢城の石垣の採石場の話が載っていました。
築城語る「現場」に触れ 金沢の文化遺産セミナー キゴ山・石切丁場を見学
(北國新聞社 2005年11月6日)
 「石川県に世界遺産を」推進会議の第四回「金沢の文化遺産セミナー」は五日、金沢市のキゴ山で開かれ、県民約八十人が、金沢城の石垣を築くために採石が行われた「石切丁場(いしきりちょうば)」跡を見学し、築城の歴史に触れた。講師を務めた金沢城研究調査室の冨田和気夫専門員は「城の石垣そのものに加え、石垣に関する技術書や、石切丁場という採石現場の三つがセットで残るのは金沢だけと言ってもいい」と述べ、史跡としての価値の高さを指摘した。(後略)

●お城と石垣、切っても切れない関係ですが、金沢城の石垣はとくに種類が多いらしく、それは、城主の趣味からつくられたのではなく、「江戸時代を通じて、火災や地震被害に対する修築が繰り返されたこと」が理由だそうです。

●結果として、それぞれの時代の技術や美的感覚が残されたわけで、文化遺産と呼ばれるものも、その時代の都合や事情をいろいろ反映しているということなんですね。

●それはともかく、現代に住む私たちは、先人たちの血と汗の結晶である文化遺産を後世に伝えていく責任があります。もちろん、観光客としては美しさに感動するだけで十分だと思いますが、少しだけ、昔の時代を振り返ってみるのもいいかもしれません。

●明治から第二次大戦まで、金沢城は陸軍(歩兵第七連隊)の営舎になっていましたが、明治14年1月10日、酔っ払った兵隊の火の不始末で出火し、二の丸御殿や菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓などの大半が焼け落ちました。その後、修築はされましたが、たぶん往時の状態は正確には残されているとはいえないでしょうね。

●戦争になれば、お城や文化財どころではなくなってしまうのですね。場合によっては、自国民をもころすこともありうる戦争、ほんとに怖いですね。

●もちろん、軍人個人が悪いのではなく、戦いに勝つことだけが目的になってしまう戦争という状況が悪いのです。それはわかるのですが、そんな戦争が大好きな(ように見える)政治家や軍人、軍需産業という存在を、私は好きになれません。

●ただ、戦国時代には金沢城も立派な軍事施設だったわけですから、人間って、ほんとに矛盾しています。戦争が科学や文化を発展させてきた原動力であることは認めますが、それらはすべて「過去の話」にしたいですね。これからは武力・戦争に頼らなくてもいい、新しい生き方を求めるべきです。きれいごとかなあ。

●石垣から話が飛んでしまいましたが、石垣は石垣として、その美しさに見惚れてしまうのも人間です。※↓金沢発ときめき浪漫さんのレポート記事ですが、石垣だけでなく、同サイトにある他の写真もすばらしく、おすすめです。
○写真が素晴らしい!
金沢発ときめき浪漫 いもり堀発掘ガイドツアー2005.9.17 (1)(2)
「広坂緑地」と「いもり堀跡暫定緑地」の完成記念イベント「いもり堀発掘ガイドツアー」に参加して

○金沢城の石垣の基本情報
築城学入門(石垣を考える)
築城金沢・匠の心
金沢城石垣の調査研究成果について
この記事へのコメント
はじめまして。
いもり堀の記事を紹介していただき、感謝!!です。
金沢の素敵な情報がたくさんあるのにビックリしました!
私のブログにリンクさせていただきました。
「金沢ピープル」もごひいきに♪
Posted by ときめき at 2005年11月07日 00:34
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